話は、その年の五月七日の夜に遡る。
晩酌で二杯目を口に含んだとき、みぞおちの辺りに異変を覚えた。
「みぞおちと背中の双方からギュッと圧迫され、何かで締め付けられたような感じでした」
その夜は晩酌を二杯でやめ、胃の調子がおかしいのは仕事の疲れだろうと早めに寝た。
しかし、次の夜も全く同じ症状に見舞われた。
彼は〈一度医者に診てもらおう〉と思った。
数日後、近所の胃腸科専門クリニックで腹部エコー(超音波)検査をしたら、胃の内部に「幅三センチ、長さ十センチ」の巨大なカゲが見つかった。
三日後の同月十四日、先のクリニックから紹介された地元の市立病院で胃カメラを飲んだところ、最悪の結果が判明したのだった。
五月十九日、診察室で見せられた胃内部の、あまりに無残でグロテスクな姿(胃カメラのカラー写真)に、T氏は絶句する。
不気味に盛り上がった赤い色のがん病巣と、ただれて黄色っぽく変色した巨大な潰瘍部分……腸との境目に近い胃の出口近く、胃角部後壁部分を映し出した検査画像だ。
一方、「これは一体、何の症状ですか?」と医師に訊ねたのは、夫に付き添った妻のSさんのほうだった。
すると、診察に当たった外科部長が妙な言い方をした。
「ご主人は、胃がんです。
それも早期ではありません。
ただし、末期でもありません」、と。
当時四十九歳のT氏は即日入院。
そして次の日の午後遅く、四十四歳の妻一人だけが外科部長に呼ばれた。
「奥さん、患者さんの前で昨日のような質問をされると医者としてウソはつけません。
しかし、がん告知はそんなに甘いものじやないですよ」
そのときに何かを直感し、Sさんが「そんなに重いのですか?」と聞いたら、「末期が
んで、あと二、三ヵ月です」と宣告されてしまったのだ。
効かない抗がん剤治療
入院当初は「すぐ手術をします」との医師の言葉を信じて、まだ少しは希望みたいなものが持てた。
だが十日間近くも長引いた検査の結果、肺と骨への転移が認められたため、もう手遅れで「手術不能」との結論が出た。
その事実は家族のみに知らされ、患者本人に対しては曖昧な説明しかなされなかった。
そして入院十五日目に、胃から千ミリリットル以上の大吐血が起きたのだ。
三日間連続の輸血が行われた結果、なんとか一命を取り留めたものの、輸血の終わった直後、がんの転移により彼の左手はほとんど動かなくなった。
「別に痛くも蝉くもないのに、左手が八十度以上の高さに上がらず、パンツの後ろにも手が回らないんです。
『これは何が原因ですか』と先生にお訊ねしたら、『がんの転移です』といわれました」
のちに私のインタビューに答え、T氏が語った言葉だ。
また、吐血の翌日から一日二十四時間の栄養点滴がはじまった。
右の首筋(頚部静脈)に点滴針を刺され、ベッドに寝たきりの状態になった。
「もの凄い重圧感とストレスです。
首にクサリをつけられたイヌと同じ状態で一日二十四時間、二十三日間。
ひどく滅入りました」
そんな日々、型どおりの抗がん剤治療(「5‐FU」と「シスプラチン」)が行われたが、その治療もあまり効果はなく、入院一ヵ月足らずで体重は五キロ減って六十四キロまで落ちていた。
患者本人は不安と焦りとストレスで苛立ちはじめる。
「先生の言うことが全くわからない」「先の計画が全く立だない」「いつになれば、手術をしてくれるのか」……。
発病前のT氏は、父親が興した小さな鉄工所を経営し、忙しい毎日を生きていた。
底冷えが続く長い鉄鋼不況、従業員六人の小所帯とぱいえ、経営者として心労の重なる日々。
しかも九五年一月、あの阪神大震災によって伊丹市内の自社工場が全壊、二年後、なんとか別の土地に新工場を再建した。
が、そこへこぎつけるまでが苦労の連続であった。
というのも、鉄工所の騒音を嫌う近隣住民から強い反対が起き、その交渉に何ヵ月間も頭を悩ませたのだ。
最後には「夜間作業は自粛する」との念書を取り交わした末、新工場を稼働させることはできたが、生真面目で誠実なT氏は、その後も「ご迷惑をかけたらいかん」と神経をすり減らした。
そのころ、ベスト体重七十四キロが七キロも減り、成人病予防健診を受けた。
繰り返しになるが、問題の健診結果は、
〈*あなたの自己申告によりますと、最近の体重減少が著明とのことです。
食事制限されているのでなければ、今回の検査で原因が見つからなくても医師に相談してください。
*胃X線検査において、胃角部後壁に隆起がみられます。
この際ぜひ内科受診の上、精密検査を受けてください。
早期に病気をみつけるには、この段階での検査が必要です〉
というもの。
が、T氏は精密検査を受けなかった。
差し迫った仕事上の事情があり、とても病気で休めるような状況ではなかったからだ。
がんが手遅れになった唯一の原因だが、はたして、彼の生き方は間違っていたか。
わが身に置き換え、私はそう自問してみる。
胃がんは胃壁の粘膜にできるが、がん細胞が粘膜から粘膜下層までにとどまる症状を早期がんと呼ぶ。
特にがんが粘膜層内にとどまるものは治癒率も高く、最近は内視鏡的切除で簡単に治す方法があるくらいである。
九七年の時点なら、T氏の胃がんばそれで簡単に治った可能性も考えられる。
しかし、同じがんが早期発見と早期治療の時期を逸すれば、がん細胞は胃粘膜から筋膜下層、筋層、漿膜などを突き破って胃の外へと転移し、治りにくい進行がんへと姿を変えてゆく。
T氏のケースがそうであった。
九九年五月、新工場の経営もやっと軌道に乗りホツと安心した矢先、運命の時が訪れる。
がん発病、それもいきなり末期がんという人生最悪の試練だ。
当然、妻もつらい現実を耐えねばならない。
「夫の末期がんを宣告されて以来、朝目が覚めるとすぐ横を見るんです。
でも、彼の姿はありません。
いつもがっかりして〈夢じゃないんだ、本当なんだ〉と毎朝、涙を拭って一日が始まるんです」
一冊のがん読本
入院一ヵ月が過ぎたころ、夫婦の会話も途絶えがちになった。
がんを知りながら末期とは教えられず、死の淵に追いつめられてゆく夫。
その姿は、もう「生きながら死んでいる状態」に近かったというのがSさんによる述懐である。
この時期、二人は目と目で「心の会話」をよく交わしたという。
〈S、ボクを助けてくれ〉〈ごめんなさい、パパ、私にぱ何もできないのよ〉。
そんな心の想いとは全く裏腹に、現実の夫と妻の会話はこうである。
「パパ、がんばってね」
「うん」
「夫婦二人で一緒にやることがまだまだ沢山あるんだから早く治ってね」
「わかってるよ」
どちらの会話も偽りのない四十代の夫妻の気持ちだった。
そうして入院三十八日目の土曜日、いよいよ「決断のとき」が訪れた。
「一九九九年六月二十六日」という日付を、妻のSさんはおそらく一生忘れないことだろう。
その昼過ぎ、別人のようにやつれた夫の病室で過ごしながら、Sさんぱ想った。
あと六ヵ月と五日で西暦二〇〇〇年、その一瞬を彼とともに迎えることができないんだ、と。
せめて可愛いテーブルクロスや花瓶敷きで病室を飾ってあげようと病院の外へ買い物に出た。
全く偶然なことに、彼女が足を向けたスーパーの店内に健康本コーナーがめった。
そこで思わず手に取ったI冊のがん読本が、彼女の夫の運命を大きく好転させることになったのだ。
それを買い求めたSさんはもう一度病院へ戻った。
すると数十分後、彼女一人が主治医に呼ばれた。
主治医は「抗がん剤をニクールやりましたがあまり効かないのです」と前置きしたうえで、少し離れた大学病院への転院を勧めた。
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